生がまっすぐ伸びていくだけのものでないなら、いつしか彼女は曲がり角に戻っていく自分を見出すかもしれない。
ハン・ガン『すべての、白いものたちの』
掃除は嫌い。汚いのは平気。なので家の中は平常運転で汚め。
今朝起きてソファに座ったら、秋の美しい木漏れ日のなかで埃がキラキラと舞っていた。流石にこれはまずいと思い床にあるものをざっざっと避けて掃除機をかけた。家族全員ロン毛の我が家は落毛の生産量が一般家庭の1.5-2倍程度あり、無数の髪の毛が掃除機のローラーに絡まっていた。
洗濯物を畳みながら『光る君へ』を見る。チャンネル争いで敗北したむすめとは険悪な雰囲気で、紫式部と賢子の剣呑さをどこか自分たちに重ねて見てしまう。
昨日の夜読みかけていた『すべての、白いものたちの』を読む。赤ん坊のまま死んでしまった姉と接続される白いものたちを断片的に描いた散文。わたしの母もわたしも流産を経験している。その子たちが生まれていたら、わたしもむすめも存在しえなかった。わたしという生の背後にある、他者の喪失。もしそれがなかったら、ということをたしかにわたしも時折考えてしまう。
友だちとインスタでDM。自分で不幸を産んで、それを創作のネタにする状態というものがあるよね、という話をする。確かにそれはあるのだけど、それをなんと呼ぶかはわからない。
子どもと夫が『ナミビアの砂漠』を見に行ったので頼まれていた書評をガッと書いて送る。ささやかな原稿だけど編集者に送るのは毎回祈るような気持ちになる。
窓の汚れをスクレイパーで綺麗にして、丸善まで散歩する。実家にあるハン・ガンの『菜食主義者』が急に読みたくなったので探してみたが、ハン・ガン作品は軒並み在庫0だった。拍子抜け。子ども用の漫画とピンチョンの文庫を買って帰る。
家の近くまで歩くと歌声が聞こえる。どこかの家で練習しているのかな、と思ったら公園に中学生くらいの子どもたちが10人くらい集まって歌っていた。犬を連れたおじいちゃんが立ち止まっている。一曲終わったら拍手。
家に着くと子どもと夫は帰っていた。感想を聞くと子どもは「よくわからんかった」とのこと。「てゆうか、さいしょのあの毛そりの商売ってなに?」と聞かれたので「エステ脱毛だよ」と答えた。
子どもとお風呂に入る。髪の毛がちゃんと洗えているか、仁王立ちで眺めていたら「なんか、お母さん子どもみたい」と言われた。なんで?と聞くと「しんちょうがのびないから。ぼくは大きくなったでしょ」との回答。そうか、わたしはもう身長が伸びないのか。