昨日寝る前にハン・ガンの『別れを告げない』を読み直しはじめた。韓国から来ている同僚とイベントで話した時にハン・ガンの話をしたら、それがきっかけで読みはじめました!という連絡をくれて、とてもとてもうれしかったのだ。
しかしやはりかなしい話でもあるので、かなしさを乗り越えながらページをめくった。
朝早くモチが起きてきて頭の上でうるさくてイラつく。本当はこういうときにイラつかないでいたいのだけど、むずかしい。
仕事をする。
お昼にふるさと納税で買ったもつ鍋が届いた。
夜は講義を受ける。最近の講義はあんまり楽しくないな、と思っていたが、今日の話はぶっ飛んでいて面白かった。多分ほとんど理解できていないのだけど、ワクワクした。
講義の中でグレーバーが出てきて、ついつい、脱資本主義を考えてしまう。
わたしの仕事は『ブルシット・ジョブ』でいうとブルシットジョブにあたるよなあ、という実感はある。さまざまな規制への対処、わたし以外3人しか見ていないドキュメントに投じた時間。
子どもたちの安全を守りながら保育する保育士さんや、今日のふるさと納税を運んでくれた佐川の配達員さん、下水道館の工事員さんの仕事と比較して、この仕事が重要で必須である、とは言い難い。
そう思うとエッセンシャルワークをせねばと感じるが、一方で経済的合理性を考えるとこうなるしかないと思ってしまうし、ふるさと納税もやっちゃうし、ブルシットジョブとわかっていても、やってみるとなんだかやりがいを感じてしまう人間の悲しいさが。
このまえ、漫画家の友だちが創作者はエッセンシャルワークをするべきだと言っていた。経済的合理性で生きる人々は本当に意味で創作者になれないのかもしれないと思った。
それでも資本主義の終わりより世界の終わりを想像する方たやすい世界で、こういうことに思いを馳せられる授業を受けられたのはよかった。
講義を聞きながらふるさと納税のもつ鍋を食べて、講義が終わるとジムに行って泳いだ。資本主義的な理想の、最低な生活。
わたしはまちがっているかもしれない。国民の健康や繁栄にとって、企業ロビイストや金融コンサルタントの仕事が分かせないと説く社会的価値論に、当人たちが心から賛同するということもありうる。したがって、自分の仕事が万人への恩恵であると固く信じながら、枕を高くして寝ているということもありうるのだ。どうだか、わたしにはわからない。
『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』