29歳になった。
よく、SNSとかでこんな大人になるなんて子どもの頃は思ってもなかったよ……的な発言を目にするけれど、子どもの頃のわたしが今のわたしを見たら想像以上に大人をしていて驚くだろうな、と思う。
小学生のわたしは幼心に自分の愚鈍さ、頭の弱さ、そして親族以外に可愛いと言われたことのない容姿を冷めた目で見ていた。
運動神経が悪くて、ドッジボールでボールをキャッチできたことは片手で数えるほど、逆上がりはついぞできなかった。成績はいつも下から数えた方が早かったし、体重はいつも平均より遥かに重たかった。野菜が苦手で友達が少なかった。
あらゆることに挫折すらせず落ちこぼれて、自分の人生、きっと大したものではないんだろうな、という諦念が身に染み付いていた。
小説を読むのが好きで、数々の物語を通して知った人生を自分に重ね合わせてみても、素敵な恋愛、だとか、人生を賭けた挑戦、だとかがわたしの人生に用意されていると思えなかった。
小学校四年生の時にプロフィール帳の将来の夢、の欄に、考古学研究者と書こうとして、結局「ふうせん」と書いた。この身体から抜け出すこと以外に未来を見出せなかったのだ。
だから、小学生の頃と変わらぬ身体のまま、20代のうちに恋愛して、結婚して、子どもがいて、大学院を卒業して、働いて、友達もいて、こんなに普通の大人になれている自分に、今でもまだ驚き続けている。
できないことが当たり前だったから、これだけできたことが積み重なっていることに、すごく感動してしまう。
わたしの場合は、自分の人生への期待が薄かったことが功を奏し、ちょっとした「できた」でも満足できてしまう、超絶怒涛のポジティブシンキングが身に付いていて、それはよかったかもしれない、と思う。
一方で、貯蓄をしてみたり、昇給を望んでみたり、積み立てNISAをしてみたり、家を買おうとしてみたり、ちゃんと大人をしようとすればするほど、あの頃のわたしに対して後ろめたさを感じる。
落ちこぼれた身体なんだからそんなにちゃんと生きようとしなくても、高望みしなくても、いいんじゃない?と子どものわたしに言われているような気持ちになるのだ。
愚鈍な身体に有り余る今の幸福が指の間からすり抜けていったとしても、きっとわたしはあぁ、やっぱり、と笑っているんだろうな。
自分で買ったケーキ。メッセージ欄に書いてある「お母さん、お誕生日おめでとう」を自分で書くのは少し恥ずかしくて楽しかった。