昨年秋、家族と友だちとカポエイラを習った。
通ったのは一度きり。カポエイラ・アカデミアという仰々しい名前の教室だった。一見すると胡散臭くも思えるその名に恥じず、カポエイラ・アカデミアは、わずか2時間ちょっとでわたしにカポエイラの基礎である「ジンガ」と競技であれど勝敗をつけない、身体のコミュニケーションたるカポエイラの精神を叩き込んでくれた。
そのとき、講師のひとに
「いつか鴨川で、たまたま出会ったひととカポエイラできたらめっちゃいいっすよね」
などと宣った記憶がある。
講師のひとは「それは素敵っすね✨」という感じの返答をしてくれた(ちなみに本当に語尾に✨があるように話すひとだった)。
それから半年以上が過ぎ、講習で芽生えたカポエイラへの情熱はどこへやら、わたしはカポエイラのカの字もない日常を送っていた。
しかし、思いがけず、「いつか」は到来した。
その日は5月にしては蒸し暑い土曜日で、わたしとむすめは出かけた帰りに、スーパーでアイスを買って鴨川で食べることにした。
ベンチに座ってアイスを食べていると背後から異様に陽気な音楽が聞こえてきた。
思わず振り返ると、10メートルほど離れたベンチの上で、ひとくみの家族が楽器をかき鳴らし、歌っていた。
「あ、あれは……カポエイラ・アカデミアで習ったやつだ……」
進研ゼミの漫画の主人公さながらに、その楽器の姿形を思い出したわたしは、30秒ほど逡巡した末に、気持ちを奮い立て立ち上がり、カポエイラ・ミュージックを奏でる一家に背を向けたまま、小さくジンガをした。我ながら、ダサいジンガだったと思う。
3ジンガほどしたときだろうか、背後から「ジンガァァア〜〜」という声が聞こえた。
(つ、伝わった……)
安堵の気持ちに満たされたわたしは振り返り、ニタァっと笑った。
それからアイスを食べおわったむすめに促され、自転車に跨ったわたしはおどおどと帰路に着くことにした。
顔を伏せたままカポエイラ・ファミリーの横を通り過ぎようとしたとき、こんな声が聞こえた。
「じゃあ、またね〜〜〜」
慌ててわたしは顔を上げてこう叫んだ。
「またね〜〜〜!!!」
これは、小さな夢を叶えたと言えるのではないだろうか?
最近、名古屋大学の考古学研究者、河江肖剰氏のYouTubeチャンネルにハマっている。古代エジプトについて、さまざまな講義動画を見る中で、小学生のころ、わたしは考古学研究者になりたかったことを思い出した。
そのころのわたしは、家にあった『まんがで学ぶNHK世界四大文明』や『アラビアンナイト』、世界ふしぎ発見といったコンテンツに触れる中で、考古学者を本気で夢見ていた。「しょうらいはわせだ大学にいってよしむらせんせい(※吉村作治氏)とエジプトにいきたい」と本気で思っていた。
それでも、忘れた。
特に諦めたわけでもなく、挫折したわけでもなく、ただ忘れた。
そうして、夢を忘れたことを思い出したわたしは、それを特に悲しむこともできずにただ「忘れた」ということを記憶し続ける。
叶えようとすることなく、忘れされるような夢を本気で見ていたわたしは、たぶん「わたし」なのだけど、わたしにはその実感がない。
河江市の動画に見入る自分をよすがに、わたしは「わたし」の延長線上にあることをなんとか受け入れようとする。
忘れた自分は他人より他人で、しかし過去のことなどたいていは忘れるので他人より遠い自分はじつは自分の大部分を占めているのかもしれない、と思うと少しこわい。
それでも今日、ずっと楽しみにしていた「ばれえのれっすんのふく」を身につけて離さないむすめを「ばれえ」を踊る自分を夢見る姿を見て、なんだ、いつか忘れる夢でもいいじゃないか、とも思う。
土曜日の鴨川・ソーシャルディスタンス・カポエイラも、むかし夢見た古代エジプト文明も、いま夢見られている「ばえれのれっすん」も本当で、どこか嘘で、叶えたり、叶えられなかったり、いずれにしたって、どうせいつか忘れ去れるものだけど、いつだってわたしがわたしでいるために、彼女が彼女でいるために、そこに在ったものなのだから。